北陸ではなぜ工芸品を作る地場産業が盛んか・続

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加賀藩時代に奨励されて盛んだった工芸品。
全国にそういう工芸品はたくさんあるはずなのです。
国の「伝統的工芸品」に指定されるには、出荷額などの条件があり
制度が始まったころに一定の規模を持ったものでないとこのいわゆる「伝統的工芸品」の
指定を受けられなかったのですが、例えば産地として小規模なもの、
高岡市立野~福岡あたりで作られていた「菅笠」も「加賀菅笠」として有名なものでしたし
(19世紀に出荷額8万石だったと言います)
城端絹とか、石川県でも二俣和紙、能登上布、牛首紬など、いろいろな伝統工芸が残っています。
しかし、江戸や京都といった都でもないこの北陸に、なぜ工芸品産業が盛んかというと
まずは前記事で書いたとおりなのですが、なぜ残って現在に至ったか…?


明治に入り、開国がなされて、いわゆる殖産興業の時代に入ります。
日本版の産業革命です。
例えば群馬は織物産業があるところですが、このころ機械で糸を引くようになり、
機械で布を織るようになりました。
伝統的工芸品の織物は手織ですが、産業としては機械で織った布製品、その加工品も盛んに作られています。
同じように、高岡でも、高峰譲吉博士の提言から、鋳物産業の一部がアルミ産業へと
形を変えていきました。
日用品鋳物から部品鋳造へ、陶器からセラミックへなど、それまで持っていた技術から、
現在身近な産業へと形を変えたところも多いのです。
しかしもう一方、明治の時代、工芸品は主要な輸出品のひとつだったと言います。
外貨を獲得するため、陶磁器や漆器、金属器などが、ヨーロッパへと輸出されていきました。
前田侯はそのような中での旧加賀藩内の工芸品産業を後押ししておられたようですし、
職人たちの参考になるようなヨーロッパの工芸品を取り寄せられたりなど
輸出品として魅力的なものができるように支援・推奨しておられました。
また、日本の工業デザイナーの草分けである納富介次郎が石川・富山の工芸学校を創立、赴任したこと
美術商としてヨーロッパで活躍した林忠正などを輩出したことなどもあるでしょう、
美術工芸品として生き残る道が、他の地域よりほんの少し太かったのかもしれませんし
高岡銅器の名工といわれる白崎善平からの問いに林忠正が応えた資料なども残っていますが
意識的に美術工芸品として生き残る道を模索し続けてきたからかもしれません。
いずれにせよ表題の件は、複合的な要因に依るものとは思われますが、
現在も様々な工芸品産業がいろいろなものづくりをしています。
伝統的な技術を用いたものから最先端の技術、素材を導入したものまで様々です。
規模や企業名の有名さにとらわれず、地元のいいもの、大切なもの、
たくさん知っていただければいいなと思います。
当財団も、様々な情報をお届けしていきたいと思う次第です。