北陸ではなぜ工芸品を作る地場産業が盛んか
その他いろいろ
…と言われると、どう申しましょう。
(という検索履歴があったのです)
学者さんではないので、確固たる話ではないですが
なんとなくこんなところかな、というのを少し。
まずは○○藩と言っていた時代の地図は、今の地図とは違っていて
高岡など富山県の西の方は加賀藩に含まれます。
富山の東の方・富山藩と、加賀市のあたり・大聖寺藩は
加賀藩の支藩。
17世紀前半、三代藩主利常公が隠居をなさるときに、
加賀藩を長男、次男三男を分家して、というかたちでできた
関係の深い親戚筋だということをまず念頭に置いていただくのがよいかも、です。
現在伝統的工芸品と言われるものは、昔は生活必需品だったもので
いたるところに職人さんがいらしたものだと思いますが
確かに加賀藩領内のものは、技巧的だったり華やかだったりします。
それは、芳春院さま(初代利家公の奥様、おまつさまです)が
京都から工芸や和菓子などの職人を金沢へ連れてこられた、とも言いますし
三代利常公や五代綱紀公の文化奨励策のようなものが影響しているともいいます。
「力のある外様大名・かつ徳川家とも近い」という特異な立場の加賀のお殿さまは
力をキープしつつ、目をつけられないようにしなくてはならなかったのでしょう、
幕府や朝廷、他の大名などへの貢物として工芸品を使ったという説もありますし
また財産をものに替えておく意味もあったのでしょうか、
高岡の御車山に素晴らしい金具がたくさんついているのは
万一の戦の際に利用するための金属を形を変えて保存しておいた…という説もあるよう。
とにかく加賀藩の政策的なところによって奨励され、盛んになったのが
大きな理由ではないかと思います。
そして、その先どうして残ったか。
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